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茶道を通じて学ぶ「和敬清寂」 | お稽古の準備や雑草取りに思う「清」。

古川宗洋
古川宗洋
初夏の風が心地よい季節となりました。
東京中野千秋庵では初風炉の設えも整い、お庭の青葉も輝いております。

お稽古がある時はいつも30分から1時間は雑草を取っています。

特に新芽がグングン伸びる今の時期は大切です。雑草だけは今のうちに取っておかないと梅雨・夏と大変な事になります。

そんな訳でゴールデン・ウィーク(GW)は庭仕事に精を出すことも多いです。

*横浜山手町GREENHOUSEの方はお借りしている建物ですので、取れるところだけです。

雑草は取っても取っても出てきます。今年取っても来年また出てきます。

じゃあ何で取るの?

学生の頃は茶事の前の庭仕事が嫌で嫌で、よく逃げ回っていました。

しかしある時ふと

「嫌じゃ嫌じゃ」と呪いながらやるよりも
「ここに集う人が幸せになりますように」と祈りながらやる方が楽しいかも。

と思うようになりました。

同じ時間ですが、恨み節を唱えながら過ごすのか、祈りながら過ごすのか、時の豊かさがまったく違うことに気づきました。

そうしたら今まで嫌だった雑草取りも平静な心で黙々と取り組むことができるようになりました。

お稽古でも同じ。準備の時間が私は一番好きかもしれません。ただ静かに黙々と準備をする。

茶道には「和敬清寂」(わけいせいじゃく)という言葉があります。

お茶って何を勉強するのですか?と聞かれれば

この「和敬清寂」の精神をお茶を通じて学んでいくのです、と答えます。

そのうちの「清」(せい)」

お点前でお道具を清めることはもちろんなのですが、この「清」には心を清めるという深い意味がこめられています。

その体験をお点前を通じて感じておられる方も多いと思います。

だからこそどんなにお仕事が忙しくても疲れていても、お稽古場に通ってこられるのではないかと思います。

心を清めるというのはすごく難しくて、清めても清めてもやはり汚れてしまうという事はあると思います。でもそこで諦めるのではなくて、清めようと行動をおこす事に意味があるのかもしれません。

それと工夫も必要かもしれません。

心と異なり、雑草は目に見えます。
取っても取っても出てきます。
しかし上手い取り方というのはあります。それが工夫となります。

お点前は毎回同じです。毎回違うのだけれど毎回同じです。
お稽古場の準備をするのも毎回同じ。だけれども毎回違う。

その中に清めの工夫が自然となされるように思います。

でも本当に難しい〜

日常に生かされなければ精神を学んだとは到底言うことはできず、修行はまだまだ続きます・・・お茶の修行は一生。

失礼致しました。

宗洋拝